私の傲慢で恒久的かつ完璧な自己救済について

日本には、最後の防波堤として、生活保護がある。
しかしながら、その適用条件は、資産を全て手放し、保険も解約する必要があるそうだ。

さて、これを書いている私は、無職であり、職を探している。*1

死ぬのを延期しつづけている|朱野帰子|note
私にも心当たりがあって、希死念慮に近い感情を抱いている。
ただ、積極的に死にたいということはなく、死を最大限に活用したい、という想いがある。
誰かを救うために死ぬのも悪くないと考えつつも、それで救えるのはせいぜい人生2-3年分なのだ。だから犬死にに毛が生えたくらいにしかならないので、私は死ぬほどではないなあなどとほざいている。
私はいかに死を合理化できるかを考え、生きる、という判断を日々下しているということになる。

労働は悪だと考えているが、どこかの誰かの労働を起点とした社会コミュニティを形成されざるを得ない。なぜなら、そこには小さな権力勾配が発生するためだ。これはずっとついて廻りこびりついたまま離れない。
しかし、これを打破する手段を私は持ち合わせていないため、現状を追認し、今日も生きているわけだ。

そして、この不均衡を受容できなくなった場合、私は、私のために、死ぬことになるのだろう。

*1:1件採用を通過しているので、承諾さえすれば職にはありつけなくもないのだが